Requiem 311

#53. 最後の絵

私はただの旅人だった
この地が好きで この地を時々訪れ
そして住み着いた

私はただの 旅人だった


定年を待たずに電車の定期を 絵筆に持ち替えた
しがない中年の私は

そのために 家族も仕事も捨てて来た






絵を愛し 絵に愛され
人生の全てを捧げた私の最後の作品は
その苦悩の境地を言い表すにふさわしい
波と私の激しい抱擁だった


長年買い換えることのなかったぼろぼろのキャンバスに
最後の午後が来る…


あともう少しで作品が仕上がるという時に
大きく大地が揺れた

身ひとつで逃げることなど 思いもしなかった

そして私は完成間近の絵を置き去りには出来ず
その絵を後生大事に抱き抱えたまま
荒波の藻屑と散った




壮絶 かつ爽快な己の最期に
潮の祝杯をあげる 宿命の渦の中で
最後に思い描いたこと

それは 今この瞬間
ここにいて良かったという思い


そのほかに何も 思い遺すことはなかった…




--- 〔 行方不明 50代中盤から後半の男性 〕 ---

Un Piano Sur La Mer ( Andre Gagnon ) A 01


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